JPT−02

 

『カメラ』 ジャン=フィリップ・トゥーサン

野崎歓・訳、集英社、1,000円(文庫版370円)

 

L−011

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、ガソリンスタンドにガスボンベを交換に行くと、その種類のガスは取り扱っていないと拒絶される。旅先では足にたこができる。車で出かければ故障し、駅まで歩くと道に迷う。終電には乗り遅れるし、電話をかけると相手はそのまま眠ってしまう。

 

何もかもがうまくいかない。といってもそれは、ユーモラスな情景ではあるけれど。

 

 

こうした現実に向かって、「ぼく」はのらりくらりと対応する。

 

「ぼくのアプローチ法は、一見はっきりしないものではあるが、その狙いは行く手を塞ぐ現実をくたびれさせることにあり、それはちょうどオリーブの実を相手にするとき、オリーブをまずくたびれさせてしまうと、フォークで刺しやすくなるのと同じ」なのだと言う。

 

 

そんなわけで、自動車教習所に通う前に、「ぼく」は教習所の受付の女性、パスカルのところに足しげく通い、一緒にロンドンに旅する仲になったりする。

そして申し込み書類用の写真を提出する前に、教習がどんどん進んでいったりもする。

実技教習の途中、カフェで一休みするのが通例になったりもする。

 

だが、のらりくらりとした対応の内側で、「ぼく」は怒りを秘めている。

 

「こうして現実の側がへばってしまい、何の抵抗も示さなくなったあかつきには、ぼくのこの、ずっと以前から身のうちに感じていた憤怒が、勢いに乗じて迸り出るのを、何物ももう止めることはできないのだ」

 

突然現れる「憤怒」という強い言葉が、不協和音を奏でている。

 

 

この小説には三度、「ぼく」が狭いところに閉じこもり、考え事にふけるという場面がある。

ガソリンスタンドのトイレで、外にいるパスカルの存在をすっかり忘れて考えにふける場面。

あるいはスピード写真のボックスの中や、電話ボックスの中。

「ぼく」はそこで何かについて具体的に考えているわけではない。ただ、思考の流れにまかせて、時間のたつのも忘れている。

 

 

「一人閉所に立てこもって、自分の思考の流れを追いながら、ほっとした気分が生まれるのを感じるとき、人は徐々に、生きることの困難から、存在することの絶望へと移行するのだ」

 

 

この「絶望」という言葉を契機にして、物語は一挙に夜の闇の中に入り込む。

いつも眠そうにしていたパスカルはすぐに眠りに落ち、「ぼく」は夜の闇の中にひとり取り残される。

 

そこは不安が支配する世界だ。

それはたとえばすべては無意味だという不安かもしれないし、すべては過ぎ去っていくという不安かもしれない。あるいは無力感かもしれないし……そのすべてなのかもしれない。

とにかく、「ぼく」は不安と向き合ってしまっている。

 

 

「憤怒」「絶望」「不安」――それらはみな、「これといって何も起こらない」生活の中に、あたりまえのように存在している。

わたしたちはただ、オリーブをフォークで圧迫するように、些細な抵抗を続けるしかない。

相手が少しでもくたびれてくれるように。

ときどき「恩寵」が訪れることを期待しながら。

 

 

 

April 13, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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