RB−01

 

『明るい部屋』 ロラン・バルト

花輪 光・訳、みすず書房、2,800円

 

P−002

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロラン・バルト(RB)は母親と仲がよかった。死別するそのときまで、RBは母親と暮らしていた。けれどなぜか仲のよい家族というものに世間は冷たい。母親と息子が仲良くしていれば、それは二人のあいだに何の問題もないから――ではなく、何か問題があるからだ、と決めつけられてしまう。

 

「家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているように扱う、あの科学的態度は、どうにも我慢がならなかった。つまり家族は、直接的な帰属集団としてコード化されるか、または、葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちには、《互いに愛し合う》家族もいるということが想像できないかのようである」

 

「私の悲しみは、母があのような人であったことから来ているのである。母があのような人であったからこそ、私は母と一緒に暮らしてきたのである」

 

 

『明るい部屋』は写真論だ。

写真について論じる以上、絵画とも映画とも違う、写真独自の本質に迫っていかなければならない――それがRBの目的だ。

 

「『写真』とは、《それ自体》何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか、私は是が非でもそれが知りたかった」

 

この本の中に出てくる写真の本質は二つある。

写真は死と切り離せない。

写真は被写体と切り離せない。

この二つの本質は、何度も繰り返し出現する。まるで螺旋階段を降りていくように何度もこの二つの本質のあいだをめぐりながら、RBは写真独自の本質に迫っていく。

 

 

写真と死の関係、それは写真が人を客体に変える、ということだ。

なぜなら、写真に撮られるということは、他人の視線で自分の外見と直面することだからだ。これは鏡で自分の姿を見るのとは違う。

 

「私にわかることは、自分が『完全なイメージ』になってしまったということ、つまり、『死』の化身となってしまったということである」

 

「私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ」

 

 

写真と被写体の関係、それは被写体の存在しない写真はない、ということだ。

 

絵画が空想の産物を描くことができるのに対して、写真は実際に存在するものしか写せない(少なくとも意図的に加工しない限りは)。

このことを裏返せば、ある被写体をとらえた写真が存在するということは、その被写体の存在を証明していることになる。

 

「ある何ものか、ある誰かが、写っていない写真はない」

 

「何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである」

 

 

こうしてRBは、人が写真を見るときに惹かれるのは撮影技術でも撮影者の意図でもなく写っている被写体のほうだ、という事実に直面し――開き直る。

 

「そこで私は、自らを『写真』全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは『写真』が存在しえないような、『写真』の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう」

 

これは客観性を何よりも重視する近代科学の否定だ。

 

「私はつねに自分の気分を論じたいと思っていたのである」「その個性を、主体の科学といったものに捧げ、提供するためである」「その科学は、私を還元することも圧殺することもないような、ある一般性に到達するのでなければならない(これはまだおこなわれたことのない賭である)」

 

 

いや……きっとこの過程は、本当は逆だったのではないだろうか?

たぶんはじめからRBの念頭にあったのは、母親の写真のことだったのかもしれない。

母親の死後、RBは多くの写真の中から母親の本質を表していると思われる、子どものころの写真を見つけ出す。きっとそれがすべてのはじまりだった。

 

「この少女の映像からわたしは善意を見てとった。その善意こそ、少女の実体をただちに、そして永久に形づくったところのものであるが、少女はそれを誰から受けついだわけでもなかった」

 

この写真はRBにとって大きな意味をもっていた。けれどこの写真について語ることは、従来の写真論の方法では不可能だった。

だからRBは新たな写真論を築く必要があったのだ。

そこに写真の本質がある――たぶんRBの直感はそう告げていた。

 

 

子どものころの母親の写真は、RBに「あのような人であった」母親をまざまざと思い出させた唯一の写真だった。

 

「それゆえ、『写真』のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは、『手に負えないもの』である」「絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである」

 

 

ところが同時にRBは死んだ母親の子どものころの写真を見ることで、もう一つの写真の特徴である、「死」にも直面してしまう。

 

「写真」では、「『時間』の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでいる、と、それはこれから死ぬ、とが一つになっているのだ」

 

「少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と」「私は」「すでに起こってしまっている破局に戦慄する。被写体がすでに死んでいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである」

 

 

愛する人の写真は、愛する人をこの手に返してはくれない――それはあたりまえのことなのだけれど、喪の最中にある者にとっては絶望的な事実だ。

 

「『死』の恐ろしさはまさしくその平板さにある」

「もっとも愛する人の死について、何も言えないということ、その人の写真について何も言えないということ。写真を見ても決してそれを掘り下げたり、変換したりすることができないということ」

 

 

写真のある時代に生まれたわたしたちは、愛する者の死に直面すると、愛する者の写真を取り出すだろう。けれどそこには「愛する者がたしかに存在した」という事実と、「愛する者はもういない」という事実が、二重に焼き付けられている。

 

「『写真』はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である。(一方においては、《それはそこにはない》が、しかし他方においては、《それは確かにそこにあった》)。『写真』は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである」

 

 

客観的な態度をつらぬく近代科学の立場の中にとどまる限り、その狂気にさらされることはない。

芸術的だったり、イメージに迎合して主体を明け渡していたりすれば狂気に到達することはない。

けれど主体を取り戻した瞬間、狂気はせまってくる。

 

「『写真』が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を直視するか、それを選ぶのは自分である」

 

 

たぶん主体は言うだろう――この世には「互いに愛し合う家族」もいるし、「善意」の人も存在する、と。

そのためになら、「手に負えない現実を直視する」ことぐらい、何でもない。

 

 

 

June 8, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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