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『伴侶』 サミュエル・ベケット 宇野邦一・訳、書肆山田 1,800円 |
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L−022 |
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最初は何もない空間がある。そこに人物を一人、作り上げる。そしてもう一人を作り上げ、二人の人間関係を一つ、作り上げる。そこからだんだん増やしていく。この人物の職業は? 経歴は? 家族構成は? どんなに少ししか登場しない人物にも完全な履歴書を作る、という脚本家がいる。大量の資料。幾日にも及ぶ取材。 いかに本当らしくみせるか、そのことに作家はたくさんの努力を費やしている。 目の前に広がるような風景描写、すぐ隣にいそうなリアルな登場人物。 なぜ本当らしく見せることにそんなにこだわるのだろう? たぶんそれは小説が嘘の世界だからだ。虚構だからだ。 本当らしく見えなければ、誰も振り向いてくれないからだ。 けれどサミュエル・ベケットの『伴侶』には、そうしたリアルに見せるシステムはまったく存在しない。この作品は世界を作り出す作業を、一切拒否している。 闇の中に横たわる聞き手の人物がいて、その人物に「おまえ」についての物語を語る人物がいる。さらにその全体を想像する人物がいる。そしてその人物も想像の産物であると明記されている。 そう、すべては想像だと暴露されている。 ここには何もない。想像しかない。 しかもその想像の中身さえ、物語とも小説とも呼びがたいしろものだ。 「おまえ」と呼ばれる人物をめぐる物語らしきものの痕跡は存在する。母親の記憶、父親の記憶、恋人の記憶。それぞれの記憶は、それなりに印象的なものではある。けれど、それは所詮記憶の断片にすぎず、それぞれの断片がつながって「おまえ」の全体像を描き出すことはない。 そしてさらに、この小説には無数の書き直しがある。 基本的に語り手は聞き手の人物のことを「おまえ」と呼び、この状況について想像する創造者は聞き手のことを「彼」と呼ぶ。 けれど創造者は突然、聞き手のことを「H」と読んでみたりする。そしてすぐに否定する。 しばらくすると今度は語り手が聞き手を「M」と呼びはじめ、自分自身を「W」と呼んでみる。だが、やはりこれもまたすぐに否定されてしまう。 未完成、あるいは工事中。 本当は、作られている過程では、すべての小説に不自然さ、わざとらしさが存在する。作者が意図的に排除してはじめて、小説は整った姿になる。そのことは作者なら誰もが知っていることだ。 小説は本来、どんなふうにでも作り直せる。書き直され、破棄されたたくさんの原稿用紙。それが、この小説がどんな風にでも展開しえたのだということを作者に思い知らせている。 「おまえ」は「わたし」でもありえたし、「彼」でもありえたし、「M」でもありえた。 そういうことをこの小説は、すべて曝してしまっている。 けれどどんなふうにでも作り直せること、それは自由であるということでもある。 最初の五分で結末が見えるドラマより、この小説は自由だ。 やがて今度は創造者が闇の中で這い歩きをはじめる。 想像しながら、闇の中を這い回り、悪戦苦闘する創造者。 それはまた、小説を書くことの困難を象徴しているのかもしれない。 August 29, 2001 |
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