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『浴室』 ジャン=フィリップ・トゥーサン 野崎歓・訳、集英社、1,000円(文庫版350円) |
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冒頭、普通ならば「愛する妻に捧げる」などと書かれているはずの場所に、「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい」と、ピタゴラスの定理が書かれている。 作品はそのとおり、直角三角形になぞらえた構成をとっている。 『浴室』というタイトルどおり、まず「ぼく」は午後を浴室で過ごすようになる。 周囲の人間はそんな「ぼく」の行動に戸惑う。だが恋人エドモンドソンはパートの仕事で家計をまかなっている。 作品はこのまましばらく浴室で進行するのか、と誰もが思うだろう。 ところが「ぼく」はたった八ページで、もう浴室を出てしまう。 「危険を冒さなきゃだめなんだ、この抽象的な暮らしの平穏さを危険に晒して、その代わりに。そこまで言って、言葉に詰まってしまった」 だが浴室を出た「ぼく」はまだ、自分のアパートを一歩も出ない。 やがて話は「直角三角形の斜辺」という第二章に入る。主人公はいきなり列車に乗り、外国に行ってしまう。着替えも持たずに。 だが「ぼく」はまた、あまり外出もせずにホテルに閉じこもりがちの日々を過ごす。 どこまでも続く閉塞、どこまでも続く抽象的な平穏。 これは引きこもり小説だろうか? 主人公は何度も、時間の経過に対する恐怖について語る。 「実のところぼくに恐怖を感じさせた本当のものは、またしても、時の流れという事実自体であったのだ」 「運動とは、一見どんな目にもとまらぬ速さであれ、本質的には不動の状態を目指すものであり、従って、どんなに緩慢な動きと見える時でも、絶えず物体を不動の状態、すなわち死へと導くものである」 時間が人を死に向かって運ぶ、それは否定できない。けれど浴室に引きこもり、時間の流れを押しとどめようとどんなに努力しても、それが実現することはないだろう。 むしろそのことで「ぼく」は自らその恐怖の中にとどまろうとしているかのようだ。 浴室に閉じこもった「ぼく」のところへ、母親がやってくる。母親は気晴らしをしなさいという。 すると「ぼく」はこう答える。 「気晴らしの必要があるのかは疑問だなあ、とぼくは答えた」 「ぼくにとって気晴らしほど恐ろしいものはないんだよ」 こうして抜書きしていると、これは死や老化、生きることそのものを恐れる「不安」についての小説なのかと思ってしまう。けれどその文体は軽妙で、ユーモラスでさえある。 やがて、主人公はまたパリに戻るのだが、そこで奇妙な事が起きる。 作品が冒頭に戻ってしまうのだ。 「ぼく」はただ、パリに戻ってくるのではなく、作品冒頭の時間に戻ってしまう。 そう、直角三角形の周囲を一周して、最初の頂点に戻ってしまうのである。 この小説はどうどうめぐりをしている。何も解決しない。 破局が訪れるわけでもなんでもない。 それはわたしたちの日常に似ている。 「ぼく」はイタリアのホテルで見つけたパスカルの『パンセ』の英訳から引用する。 「われわれのあらゆる苦悩の原因」は「われわれが無力な、死を免れない身の上であるというナチュラルな苦悩に由来するもので、その身の上は余りにミゼラブルであるので」「何ものもわれわれを慰めることはできない」 その、軽妙さにごまかされて、気が付くとわたしたちは深い迷宮の中に誘い込まれていたのかもしれない。 February 15, 2001 |
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