RB−02

 

『恋愛のディスクール・断章』

ロラン・バルト

三好郁朗・訳、みすず書房、3,500円

 

P−004

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かつて本を前から順番に読んでいく、というごくあたりまえのことがほとんどできなくなってしまった時期があった。

気に入った本を買っても、なかなか本腰を入れて読む気になれない。拾い読みばかりしていて、一冊の本を読むのに時間がかかって仕方がない。

たぶん二十歳をすぎたころだったと思う。

 

『恋愛のディスクール・断章』をはじめて読んだのは、ちょうどそんなころだった。

でもこの本は前から順番に読んでいく必要のまったくない本だった。巻頭の文章のあとに続く断章はすべてテーマごとに独立し、タイトルのアルファベット順に並んでいるだけだ。「不在」「待機」「充足」「接触」「告白」「嫉妬」「やさしさ」……。そして無数の小説からテーマごとに「恋愛のディスクール」が集められている。

わたしは安心して、でたらめな順序で断章を読んでいった。

 

 

この本の断章がアルファベット順に並べられている理由は、「ある種の順序が与えられることで生じる『恋愛哲学』」を避けるためだ、という。アルファベット順に並べられていれば、その順序には何の意図もない、ということがはっきりするからだ。

 

RBは「恋愛物語」とは恋愛を、「因果律あるいは目的律にのっとって解釈すること」であり、「教訓話に仕立て」たものであり、それは「物語にとっての大いなる『他者』たる一般世論に支配されている」という。

 

「恋愛物語(『アバンチュール』)とは、恋する者が世間と和解するために支払わねばならぬ租税なのだ」

 

そんなわけで「恋愛物語」はみな、いくつかのパターンにおさまってしまうことになる。

 

「そのようにして、狂おしいまでのカップルから、世帯というみだらさ――一方が他方のために一生料理をつくる――が生じるのである」

 

『恋愛のディスクール』はそのような「他者」の介入を徹底的に避けた書物だ、ということになる。

 

 

ストーリーにそって読むことをやめてしまうと、小説はばらばらのシーンの集まりになる。まるで映写機からはずされた映画のフィルムのように、無数の写真のかたまりになる。ばらばらにした写真にタイトルをつけて、アルファベット順に並べると、それは無秩序な順序で並んだ一冊の写真集になるだろう。

 

動きがなくなっても、ストーリーがなくなっても、わたしの気を引く写真と、そうでない写真がある。

同じように、小説の中にも、ストーリーがなくなっても、わたしの気を引くシーンと、そうでないシーンがある。わたしの気を引くかどうか、それはたぶん、ストーリーにはほとんど関係がない。

 

『恋愛のディスクール』の断章を無作為に選んで読んでいるうちに、わたしの頭の中には勝手に、「わたし」と「あの人」(あるいは「わたし」と「X」)の物語がぼんやりと出来上がっていった。

そこには「わたし」や「あの人」についての詳しい説明はない。「わたし」は恋する者、「あの人」は想いをよせる相手、それだけだ。階級もなければ国籍もない、人種も宗教も、学歴も年収も、性差すらほとんどない。

だから「わたし」と「あの人」のあいだには、「立場」がない。力関係が存在しない。

現実にはない、抽象的な関係。

そんな抽象的な「わたし」と「あの人」の物語が、わたしの頭の中で成長していく。たいした仕掛けもなく、何の展開もない物語。それはたぶん、わたしの勝手な思い込みだ。わたしの創作、と言ってもいいかもしれない。

でもこの物語になら、わたしは抵抗を覚えなかった。

わたしはわたしの創った物語にしか耐えられなくなっていたのだ。

 

たぶん、わたしは「小説の作者」に物語を強制されることを拒絶していたのだろう。

既存の小説に分かちがたく入り込んでいる、「他者」を拒絶していたのだ。

 

 

この本が書かれた理由は、「恋愛にかかわるディスクール(言述)が今日、極度の孤立状態におかれている」からだった。

 

「あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛の方に重い。Xが性生活について『深刻な問題』をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである」

 

そして誰もが「感傷のかわりにセックスを」おくことになる。

 

実際に自分で小説を書いてみれば、このことは誰にでも簡単にわかるだろう。セックスについて書いたものは、容易に小説として受け入れられる。特殊な性行為について書いたものはもっと容易に受け入れられる。少し文章が上手ければ、すぐに「文学」として流通してしまう。

逆に感傷について書いたものは、それだけでは「文学」としては受け入れられない。よほど技巧的であるか、それとも前衛的でない限りは。

 

「恋愛の生を織りなすもろもろのできごとは、すべてが驚くほどにくだらぬものばかりである」「電話がかかってこないからというので、わたしは本気で自殺を考える」「『この世界には飢えで死ぬ人々が数多くあり、多くの民族が自由のための苦しい闘争を続けているというのに』、恋愛主体は相手が不在をよそおっただけで涙にくれている。これ以上の不都合さはあろうはずもないのである」

 

けれどもしも「情愛」がそこまで徹底的に忌避されているのであれば、それこそが「文学」が成立する地点なのではないだろうか?

「あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛の方に重い」というのであれば、書かれるべきは「セックス」ではなく、「情愛」のほうなのではないだろうか?

 

 

わたしが読み取った『恋愛のディスクール・断章』はきっと、ひとつの読み方の例にすぎない。わたしの頭の中にできあがった「わたし」と「あの人」の物語は、きっとわたしの頭の中にしか存在しないだろう。

だからわたしがどこに惹かれたのかは、ここには書かない。

あなたが読めばこの本は、あなたのための物語を用意しているだろう。

たぶん、『恋愛のディスクール・断章』は、読んだ人の数だけ存在する。

 

 

 

December 31, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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