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同性愛と生存の美学』 ミシェル・フーコー

増田一夫・訳、哲学書房、2,100円

 

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最初にこの本を読んだとき、「強姦のような一部の性行為は、男と女に関わるものであれ、二人の男に関わるものであれ、許されないからです」というはっきりとした断定形の表現に、わたしは少し驚いた。何かを禁止する断定形の文章は、現代哲学の世界ではあまり目にすることはない、と思っていたから。いまのわたしなら、強姦は性行為の一種ではなく、暴力の一種だ、と言いたくなるのだけれど。

 

それでも、強姦の禁止を明確に断言する姿勢を、わたしは気に入っている。

 

「われわれが、絶対の自由、性行為の一種の完全な自由を目標として持つべきだとは思いません。しかしながら、性の選択の自由が脅かされている所では、われわれは妥協してはならないのです」

 

つまり、ここでフーコーが語っている「性の選択の自由」とは、何をしてもいい、ということではない。無意味な差別に対する決別だ。

 

 

この本の第一部は、1981年からフーコーの死の直前、1984年に行われた四つのインタビューで構成されている。第二部はその少し以前、1977年にラカン派の雑誌で行われた対談である。内容は全六巻の予定で刊行されていた『性の歴史』をめぐるものだ。ただ、フーコーが何を目指していたのかを知りたいのであれば、『性の歴史』よりもこのインタビュー集のほうがわかりやすい気がする。

 

 

まずフーコーは、同性愛の禁止はキリスト教によるものだ、という一般的な見方を否定する。同性愛が容認されていたと信じられているキリスト以前の古代ギリシャにあっても、事実は許されていたのは身分の低いもの、年齢の若い者が受身になる性行為だけだったのであり、そこにあったのは形を変えた支配関係にすぎなかった。

 

「二人の人間の間の関係の本質は一方がもう一方に隷属するかどうかである、と何世紀もの間みなしてきた文化において、人々の興味と好奇心、彼らの狡智の一切は、相手に屈従を強い、ベッドに一緒に入るよう強いることにあった」

 

つまり時代をさかのぼればユートピアが出現する、という安易な懐古趣味、もしくは自然回帰志向は否定される。事態はそのような単純なものではないのだ。

 

 

次にフーコーは、そもそも同性愛とは何か、と問うことを否定する。なぜならそれは、同性愛の問題を性行為そのものの問題にすりかえてしまうからだ。

 

「通りで出会い、眼差しひとつで魅惑し合い、お互いの尻に手をやり、十五分後には性を享受し合っているという、直接的な快楽の形でしか同性愛を紹介しないのは、他の人々に対する譲歩のひとつなのです。そこにあるのは、同性愛の一種の小奇麗なイメージであり、同性愛は」「不安を与える潜在的な力を失っています」

 

「性行為そのものよりも、同性愛的な性の様式の方が遙かに」「同性愛を『当惑させるもの』にしているのだと思います」「個々の人間が愛し合い始めること、それこそが問題なのです」

 

つまり、一方が他方を屈従させているような関係、どちらかがどちらかを支配しているような関係ならば、同性愛だろうか異性愛だろうが人を不安にさせることはない。人と人との関係が支配関係になっている限り、その関係は権力を支えるものとなりうるから。あるいは、人間関係が存在しない性行為もまた、人を不安にさせることはない。

 

問題は性行為ではなく、愛し合うことの禁止だったのだ。

 

 

こうしてフーコーの関心は「友情」へと向かう。

 

「したがってわれわれは懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることはないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです」

 

さらに「同性愛」という言葉をより広義の意味を持つ「ゲイ」という言葉に言いかえる。

 

「新たな関係を発見し、発明するためにおのれの性を用いるべきだと私は言いたい。ゲイであること、それは生成過程にあるということであり、さらに」「同性愛者になるべきだではなく、しかし懸命にゲイになるべきなのだと付け加えましょう」

 

 

「禁欲」という言葉まで使って「性行為」よりも「友情」が問題なのだと語ったフーコーは、きっと「二人の人間の間の関係の本質は一方がもう一方に隷属するかどうかである」という考えが嫌でたまらなかったのだろう。

 

「『性現象』という対象」は「実際はきわめて昔から形成された道具であり、それは千年以上の隷属化の装置を構成してきた」。そしてそのことが「友情」の成立を邪魔してきたのだ。

 

「性行為」と「友情」が両立しないという考えは、「性行為」が支配関係だと思われているために生じる考えだ。そしてその問題の矛盾は、「別の生き物」だと思われている異性間においてより、同性間においてのほうが明確になる。性行為がなかったときには「友情」が成立していたのに、性行為が成立した瞬間から「友情」が消滅し、支配関係に移行する……なんて、ばかげているから。

 

 

すべての性的な関係が支配関係だという世界観のもとでは、「強姦」は性行為の一種になるし、家族による性的虐待は近親相姦になってしまう。それどころか合意のもとの性行為はすべて売春ということになりかねない(見返りがないのに受身の性行為をするものなどいるはずがない、ということになる)。「男と女のあいだには友情は成立しない」というような手垢のついた俗説も、きっと性行為が支配関係であるという前提に基づいている。そして言い訳はいつも「それが本能だから」である。

 

もちろん、こんな俗説には何の根拠もない。

 

「本能の出現は」「一八四○年代のものなんです」

 

けれど「本能」だとか「野生」だとか、あいまいで科学的根拠のない理由を言うような連中は、自分の言っていることが正しいのか誤っているのか立証してみせる気なんてさらさらない。どんなに緻密な論証を用意しようとも、偏見にとらわれている人間が考えを変えることはない。そのことを思うと絶望的な気持ちになる。

 

 

たぶん、結論はとっくに出ている。どんな社会システムも、何か合理性や必然性があってできあがるわけじゃない。ただ、成り行きでできあがるだけだ。できあがった社会の内側にいると、すべてが必然的に見えるだけで、それらは「なぜこうなったのか」と問うには値しない。だったら、考えを変える気のない相手との不毛な議論なんか終わりにして、信じる道をどんどん進んでいけばいい。

 

どちらの行く手に未来があるのか、それもまた成り行きで決まるのかもしれない。

 

 

問題は、信じる道に進む自由を守れるかどうか、だ。

 

「私が思うに、ここで重要な問題は、禁止なしの文化は可能なのかとか、あるいは望ましくさえあるのかということよりも、ある社会がその内部で機能している当のシステムが、個人にそのシステムを変える自由を残しているのかどうかだ、という気がします」

 

ここでは「自由」と「禁止」は矛盾しない。世界は秩序を保っていて、同時に動いている。

 

 

 

May 4, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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