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『鍵のかかった部屋』

ポール・オースター

柴田元幸・訳、白水社、1,600円(Uブックス版920円)

 

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「僕」とファンショーは幼いころから一緒に育った。家も隣同士だったし、外見もよく似ていた。

けれど高校生のころファンショーの父親が死に、二人は離れていくことになる。

そして、もうあまりファンショーのことなど思い出すこともなくなったある日、「僕」のもとにファンショーの妻と名乗る女性から手紙がやってくる。

「僕」はファンショーが大量の原稿と妻のソフィーを残したまま姿を消したことを知る。

 

 

『鍵のかかった部屋』は『シティ・オブ・グラス』、『幽霊たち』につづく、ニューヨーク三部作の完結編だ。前二作と同様、探偵小説的構造を持ち、主人公が他者を追跡するうちに次第に他者と同化し、自己を失っていく――という物語を描いている。

けれどこの作品が前二作と最も異なっているのは、追跡する他者が子どものころからの親友だ、という点だろう。そのため、ファンショーが何者であるのかという問いは、「僕」が何者であるのかという問いとより密接につながっていくことになる。

 

「いまにして思えばいつもファンショーがそこにいたような気がする。彼は僕にとってすべてがはじまる場であり、彼がいなければ僕は自分が誰なのかもよくわからないだろう」

 

たぶんそのせいなのかもしれない、わたしにはこの作品が、「他者と同化する話」というより、「一人の人間の二面性を描いた話」のように思えてならなかった。

 

 

物語の冒頭、「僕」は雑誌に書評を書いているだけのしがない評論家だった。

 

「はじめは僕も大きな希望を抱いていた。いつの日か小説家になりたい、人々を感動させ人々の人生を変えるような文章を書きたい、そう思っていた。だが時が経つにつれ、少しずつ僕にもわかってきた。そんなことは決して起こりはしないのだと。一冊の本を書き上げるだけのものを僕は自分の中に持っていないのだ」

 

一方ファンショーはその時点ですでに、主要な作品をすべてを書き終えている。

それはファンショーが「僕」よりも暗闇に強く捕われているからだ。

 

「暗闇だけが、世界に向かって自分の心を打ち明けたいという気持ちを人に抱かせる力を持つ」

 

ファンショーは書くことにのめりこむあまり、この暗闇の中に取り込まれてしまう。

 

 

ファンショーに原稿を託された「僕」は、今度はファンショーという暗闇に取り込まれていく。

その暗闇は「僕」がソフィーと恋に落ちたことで広がりはじめる。やがてファンショーからの手紙が舞い込み、その生存がはっきりすると――「僕」は完全に暗闇に飲み込まれてしまう。

ファンショーが戻ってくれば、今の生活は崩壊し、ソフィーを失う――「僕」はそう感じている。

 

ファンショーが現れれば、ソフィーも小説も、すべてファンショーの手に戻る。

ファンショーがいなければ、ソフィーも小説も、すべて「僕」の手にある。

少なくとも「僕」はそう信じている。

 

そう、ここで描かれている「ファンショー」や「ソフィー」は、現実じゃない。すべては「僕」の世界の中の位置付け、解釈に過ぎない。

これは「僕」の内的世界だ。脅威は生身のファンショーにあるのではない。

 

「ファンショーはまさに僕がいるところにいるのであり、はじめからずっとそこにいたのだ」

「鍵のかかった部屋のドア」「ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている。おそらくは生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢を夢みている。いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを」

 

 

ファンショーが「僕」の内側にいる以上、そこから逃れることはできない。

 

「僕の唯一の希望は、僕がこれから語る話に終わりが訪れてくれればいいということだ。暗闇の中のどこかに出口を見つけ出せればということだ」

 

そして「僕」の物語は、前二作と同様、主人公の消滅で完結する。

 

「これは僕の死の瞬間なのだ、と僕は胸のうちで言った。いまこそ僕は死ぬのだ、と」

 

こうして何も書けなかった過去の「僕」はもう、生身の存在ではなくなる。

気がつくと、過去の「僕」は物語の登場人物になってしまっている。

 

そしてファンショーもまた、過去の「僕」とともに消えていく。

 

 

『シティ・オブ・グラス』や『幽霊たち』では、三人称の語りの隙間に突如、「わたし」や「我々」が現れた。

一人称の物語である『鍵のかかった部屋』には、そうした語りの破綻は見えない。ただ、この物語の中では、前二作の「わたし」や「我々」が「僕」であることが明かされる。

 

「『ガラスの街』、『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ」

 

ここで言う「僕」とは、書けなかった過去の「僕」、暗闇に飛び込むことができなかった過去の「僕」ではない。

ファンショーという暗闇に引きずり込まれた「僕」は、逆にそのことで書く力を得た。

ファンショーという暗闇に飛び込み、そこから物語を終わらせることのできた「僕」。

一冊の本を書くだけのものを持つようになった「僕」。

 

「僕はただ、起きた出来事を振り返っても自分がもはや怯えなくなった瞬間が訪れた、ということを伝えようとしているだけなのだ」

 

 

こうして三つの物語が終わり、クィンも、ブルーも、ファンショーも、過去の「僕」も消えた。

けれど「僕」はいまも物語を書きつづけている。

暗闇は消えてなくなったわけじゃない。

 

「いったんそれが起きれば、それはいつまでも起こりつづける。生きているかぎりずっと、人はそれとともに生きつづけるのだ」

 

なぜならその暗闇ははじめから、「僕」の内部からやってきたものなのだから。

 

 

 

July 28, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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