JPT−03 |
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『ためらい』 ジャン=フィリップ・トゥーサン 野崎歓・訳、集英社、1,000円(文庫版380円) |
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L−017 |
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かつて、うしろで誰かが笑っていると、自分が笑われているんじゃないかと気になって仕方のない時期があった。とくに何か理由があるわけじゃないのに、見知らぬ人が自分に悪意を持っているような気がする。気づかないうちに自分が何か場違いなことをしでかしているんじゃないか、と無性に心配になる。そのせいで何か新しいことをするのが苦痛で仕方がない。 いまも少し、そういう傾向は残っている。 不安神経症――そうかもしれない。 「今朝、港で猫の死体を見た」 この一言ではじまる『ためらい』は、終始不安について語っている。それも、ほとんど根拠のない不安。不安は不安を呼び、徐々に膨れ上がっていく。 「ぼく」はサスエロの村に、ビアッジ家を訪問するためにやってきた。けれど実際に来てみると、なかなかビアッジに会いに行く気になれない。何のためにビアッジに会いに来たのか、会わずにすますことができるのか、そうした説明は一切書かれていない。ただ、「ぼく」はためらいつづける。 何も起こらないのに漂う緊張感。 いつか破滅が訪れそうな予感。 そして「ぼく」のビアッジ家の人たちに対する不安は、猫の死体を見つけたことで加速していく。この猫を殺したのはビアッジに違いないと思ったり、猫を見つけたときビアッジは自分のことを見ていたに違いない、と思ったりする。 やがてホテルに自分の気づかなかったフロアーが存在することを知った「ぼく」は、ビアッジがこのホテルに滞在して自分を見張っているのだと信じ込み、フロントの留守を狙って鍵を盗み、他人の部屋を無断で開ける。 病的な不安。 けれど結局すべての不安は妄想に過ぎない。やがて「ぼく」の疑問には理由づけがなされ、不安はかき消される。 ビアッジが自分のことを見張っているという根拠はなくなり、ビアッジ家を避ける理由もなくなる。 「そうしてみると、逆説的なことではあるが、われわれはふりだしに戻って、ぼくにとっては一切が最初の日と変わらない状況となったのだから、今や改めてビアッジ家を訪ねることを考えてみてもいいのではないか」 そう、『浴室』と同じ、この小説も閉じた構造をしている。百ページ以上読み進んだのに、すべてはふりだしに戻ってしまう。 そして主人公は再び、ビアッジ家に向かおうとして……ためらう。 ここから、出られない。 「ぼく」はまだ話もできない生後八ヶ月の息子を連れてきている。息子はベビーカーに乗っているかベビーベッドに寝かされているかのどちらかで、ときどき泣くこともあるけれど、あまり手がかからない。そしてユーモラスなしぐさをしてみせる。 この、とぼけた息子の存在で、かろうじて作品はバランスを取っている。一人きりでいたら狂気の世界に突入してしまうところを、息子が現実に引き戻す。 『浴室』や『カメラ』では恋人が果たしていた現実との橋渡し役を、この作品では息子が果たしている。 けれどその息子の存在もまた、「ぼく」をどこかに導くことはない。 「ぼくは三十三歳、つまり青春の終わる歳を迎えたところなのである」 時間の経過は成長ではなく、生命の終わりを示唆している。 何一つ起こらない平穏の中で、時間だけが過ぎていく。 決してどこへ行き着くこともないという強固な閉塞感の中で、いつか何か恐ろしいことが起こるのではないかという不安だけが増していく。 きっと本当に恐ろしいことは、気づかないうちに不安が暴走してしまうことなのだろう。 だから「ぼく」はこの不安を見つめつづけている。 June 25, 2001 |
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