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『ヴィトゲンシュタインの甥』 トーマス・ベルンハルト 岩下眞好・訳、音楽之友社、1,900円 |
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病院に行くとときどき、医師に不当に扱われている、と思うことがある。 本屋に行くとときどき、まともな本なんて一冊も売っていない、と思うことがある。 ……たとえばこんなふうに書くときの「ときどき」というのは、一種の婉曲表現かもしれない。本当は医者なんてみんなペテン師だと思っていたとしても、日本の出版界は世界で最悪だと思っていたとしても、わたしはきっと「ときどき」と書くだろう。そういう婉曲表現が、身についてしまっている。 たぶんわたしたちはそういう表現を、礼儀正しいと思っていたり、美しい表現だと思っていたりする。 けれどトーマス・ベルンハルト(TB)の言葉には、そんな中途半端な婉曲表現は一切存在しない。 たとえば医者について語るときTBは、「ラテン語の中に身を隠して、そのラテン語を、堂々と、何百年も前から彼らの先輩たちがしてきたとおり、ただただ自分たちの無能力を取り繕ってペテン師ぶりをカモフラージュするために、自分と患者とのあいだの越えることのできない頑丈な防壁として用いてきた」「その診療の方法たるや、誰もが知っているとおり、非人間的で血なまぐさく命取りにもなりかねない代物なのである」と切って捨てる。 あるいはオーストリアという国について語るときTBは、「主要な町と世に言われている多くの町々で、それもザルツブルグでさえ、ノイエ・チャルヒャー・ツァイトゥングを入手できなかったというこの事実に、反動的で偏狭、田舎根生でいて同時にほとんど不愉快なまでに誇大妄想的なこの国に対する怒りが私たち皆にこみあげてきた」と容赦なくたたきのめす。 たかが新聞ひとつ入手できなかっただけの話とは思えないほどの怒りだ。 たぶん、身もふたもない、という言葉はこの人のため存在する。 ところが不思議なことにこの小説を読んでいると、わたしはどんどん爽快な気分になっていく。 わたしたちはいつも、不平を言ってはいけない、否定的な表現を使ってはいけない、と言い含められいるのだろう。やがてわたしたちは言葉だけでなく、頭の中でまで否定的なことを避けるようになり、自分が何に不満を持っているのかさえはっきりとはわからなくなってしまう。 医師の態度が無愛想なのは、難しい仕事で忙しいから。 読みたい本がどこにもないのは、自分が他の人が必要としないものを欲しがる変わり者だから。 そんなふうに考えるうちに、わたしたちは真実を見失う。さしさわりのない言葉ばかりが蔓延し、問題提起をするものなど一人もいない。 けれどそれがどんなに美しい言葉で飾られていても、しょせん嘘は嘘なのだ。嘘は真実を隠蔽する。嘘の上には何も創造できない。 TBはそこに、剥き出しの真実を突きつける。 「当然のことながら私たちは、私たちに嘘をつく人たちを軽蔑し、私たちに真実を言ってくれる人たちを尊敬する」 そしてわたしたちは真実を思い出す。 「人間はみじめであり、確実に死ぬのだ」 『ヴィトゲンシュタインの甥』は、二十世紀を代表する哲学者の一人、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの甥、パウル・ヴィトゲンシュタインについての小説だ。 パウル・ヴィトゲンシュタインは、著作など形に残るものは残さなかったものの、ルートヴィヒと変わらないレベルの哲学者であり、TBにとっては「真実を言ってくれる」数少ない……たぶん唯一の親友だった。 「パウルは落ち着きのない、いつも神経がぴりぴりした、絶え間なく自制のきかない人間だった。もの思いに沈みがちで、絶え間なく哲学的にものを考え、絶え間なく人を咎め立てする人間だった。パウルは信じがたいほどに年季を積んだ観察者だったので、そして、時とともに観察の芸術というべきものにまでなっていたそうした観察法によってまったく情け容赦のない人間になっていたので、つねに人を咎め立てするあらゆる根拠にこと欠かなかった」 さらにTBの攻撃の刃は自身にも向かっている。 「私は性格のいい人間ではない。とにかくけっして性格のいい人間ではないのである」 たぶん、わたしたちは「性格のいい人間」のふりをするために、多大な努力を傾けている。そういうことにかなりのエネルギーを無駄づかいしてしまっている。 そして自分が「性格のいい人間」のふりをしているということすら、忘れてしまっている。 わたしたちは咎め立てされて、当然の存在なのだ。 May 16, 2001 |
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