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『左ききの女』 ペーター・ハントケ 池田香代子・訳、同学社、1,000円 |
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L−026 |
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最初にマリアンネ(M)とブルーノ(B)の結婚生活の破局がある。 「恋愛物語」の定石なら、破局ではじまる物語にはかならず再生の物語が続く。 Bとよりを戻すにしても、新しい出会いをするにしても、あるいは自立の道をいくにしても……それは再生の物語となるはずだ。 けれどこの小説に再生はない。 「私から離れて、ブルーノ。私を独りにして」とMがBに告げ、結婚生活が破局を迎えるまでの20ページのあいだに、Bはその自分勝手な行動をこれでもかというほど見せつける。 子どもが迎えに来なかったことを不思議とも思わず、Mに留守中どうしていたのかたずねることもなく、おみやげを渡すこともなく、家族のもとに戻れてよかったとひとり上機嫌で、しかも子どもを早々に寝かしつけると、Mに相談もなく子ども部屋に書き置きを残してMをレストランに連れ出し、そのままホテルに泊まろうと言い出す。 その間、Bはひたすら自分の判断を通し、誰の意見も聞かない。 恐ろしいのは、自分のことしか考えていないという自覚がBにはまったくないことだ。Bはおそらく自分がMと子どもを強く愛していると確信しているだろう。自分はMと子どもために生きているとさえ思っているかもしれない。 けれどそれは勝手な思い込みに過ぎない。 Mは子どもにさえ「お母さん、ほんとに嬉しそうにしたことってないね」と言われるほど長期間に渡って追い詰められていた。 そのことにBはまったく気づいていなかった。Bにとってこの破局は突然のできごとだった。 たぶんBにとっての家庭は、「働くもの」と「いやすもの」という役割分担の上に成り立っている。だから、たとえどんなにMが疲労していても、Bには自分がMをいやす側にまわるという発想はない。自分よりも疲れているMにでも、Bは自分をいやすことを強要するだろう。 まるでBが「いやす機械」であるかのように。 「あなた、ちっとも私なんかと話してない。私といっしょになんかいない」とMは言う。 わたしは、この本を読みながらずっと、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』の中にある「そのようにして、狂おしいまでのカップルから、世帯というみだらさ――一方が他方のために一生料理をつくる――が生じるのである」という一文を思い出していた。 互いに尽くすという前提でありながら、実は一方が他方のために尽くすという構造。「働くもの」と「いやすもの」という固定された役割分担。 まるで一方は働いていないかのように。 「世帯」は「ささやかなしあわせ」なんかじゃない。それは一方が他方の支配下に入る、というシステムだ。たとえ相手がたった一人の人間だとしても、たとえ本人に自覚がなかったとしても、誰かの人生を支配して当然だと思う人間は、すべておぞましい権力主義者だ。 そんな人間と暮らしていて、やすらぎが訪れるはずがない。 「ねえ、誰かといっしょにしあわせになりたいって気持ち、ない?」と訊かれて、Mはこう答える。 「ないわ。しあわせになりたいとは思わない。せいぜい満ち足りた思いならば、してみたいと思うけど。しあわせになるのが恐い。頭が耐えられないと思う。永久に狂ってしまうわ。さもなきゃ死んでしまうか。それとも誰かを殺してしまうわ」 ここには絶望が見える。 しあわせなどありえない、という絶望が。 この小説に再生の物語がありえないのは、Mの絶望が深いからだ。 冒頭の破局は、恋愛物語すべてを拒絶するほど深い絶望をMにもたらしている。 だからこの小説は、物語を徹底的に排除することで成り立っている。 Mは鏡に向かって一人、宣言する。 「あなたたち、自分がなにをしようとしているのか、考えてみてよ。あなたたちが私についてなにかいえるって頑固に思い込めば思い込むほど、私はあなたたちから自由になる。世間の人たちが教えてくれることは、そのとたんにもうどうでもいいものになってるって気がする。これから、誰かが私はどんなだって説明してくれたら、たとえその人が私におせじを使おうとか、私の肩を持とうとかってつもりでも、そんなあつかましいことは結構っていうわ」 一人になったMのまわりには次々と新しい人物が現れ、新しい物語にMを誘い込もうとする。 友人は何かの集会にMを誘い、仕事先の出版社の社長はシャンパンを持ってよふけに訪ねてくる。偶然出会った俳優はいきなりMに恋をしていると打ち明ける。 そうしたありふれた人の態度が、すべて暴力的に思える。 Mは告げる。 「私との計画なんて、立てないで」と。 誰のどんな計画にも乗らないこと。 誰の描くどんな物語にも入り込まないこと。 自分自身も物語を描かないこと。 それがMがとった戦略だ。 どんな物語も拒絶しつづけること。 それこそが物語のもつ権力から逃れる唯一の方法だ。 だからこの小説では、どんなエピソードも何の展開も生まない。すべてはただそこにあるだけで、その先のできごとの伏線にも、謎を解き明かすヒントにもならない。結婚生活の破局が訪れた20ページの後には、物語を拒みつづけるMの姿が淡々と描かれているだけだ。 そしてペーター・ハントケはこの何も起こらない小説を文体の緊張感のみで維持し、けっして陳腐でステレオタイプな価値観に足元をすくわれることなく、「物語を避けつづける主人公を小説として描く」という困難な作業を成功させている。 最後にMはふたたび鏡の前で言う。 「私は自分を欺かなかったわ。誰ももう私を侮辱することはないのよ!」 それは高らかな勝利宣言だ。 この世界は幸福な結末に彩られた物語という罠で満ちている。 誰もが無邪気な顔をして、他人に物語を押しつける。 誰もが善人の顔をして、あなたが何者であるか決めつけようとする。 物語に屈しないこと、それは孤独な戦いだ。 世界は物語に支配されているのだから。 Mはこの壮絶な戦いを見事に勝ち抜いている。 November 29, 2003 |
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