MD−02

 

『モデラート・カンタービレ』

マルグリット・デュラス

田中倫郎・訳、河出文庫、420円

 

L−025

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに殺人事件がある。

たまたま子どものピアノのレッスンに付き添って近くにいたアンヌ・デバレードは、カフェで起きたこの殺人事件の現場を目撃する。死んだ女と、殺した男。警察はようやく来たばかりで、野次馬が取り巻いている。

 

「女はまだ若く、彼女の口からは細長い血の筋がいく筋か流れており、女に口づけした男の顔にも血がついていた」

 

男はまるで女が生きていても死んでいてもかまわないかのように、死体に寄り添っている。

この事件を目撃したことから、アンヌ・デバレードの世界は崩壊に向かっていく。

 

 

事件のことが忘れられないアンヌ・デバレードは、翌日もカフェに出かけていく。まだ工場の終業前の時間にもかかわらず、カフェには男が一人いる。この男がアンヌ・デバレードに言う。

 

「ただぼくは、あの男が心臓を狙ったのは、女に頼まれてしたことだろうと思います」

 

事件の真相が実際にこの通りであるのかどうかはわからない。けれど二人のあいだでは、この物語が膨れ上がっていく。二人は同じ物語を共有している。

こうして二人アンヌ・デバレードは毎日カフェに通い、事件について話さずにはいられない。

 

 

けれどすべては事件からはじまったわけではない。

 

「あなたはデバレード夫人でしょう。ご主人は、貿易会社と沿岸鎔鉱所とを経営なさってますね。お住まいは海岸通でしたね」

 

出会ってすぐに、男はそう言う。

 

そしてカフェでの出会いから三日目、ようやく男が名をなのる。するとアンヌ・デバレードは言う。

 

「お名前は知ってたわ。それに、あなたが理由も言わずに鎔鉱所を飛び出したことも、この町のどこでもあなたを雇ってくれないから、遠からずまた鎔鉱所へ舞い戻らなければならないってことも知ってたのよ」

 

実は二人はお互いにその身の上を知っていたのだ。

 

 

本当は、殺人事件を目撃したことから、アンヌ・デバレードの世界が崩壊したわけじゃない。たぶんアンヌ・デバレードの世界は、すでにぼろぼろと崩れはじめていたのだ。

詳しくは描かれていないが、アンヌ・デバレードの世界には、一切の自由がない。自分の意志で何かをする、ということがまったく許されない世界。夕食会の席でメイン・ディッシュを断ることも、気まぐれでカフェに立ち寄ることも、気晴らしに大声で叫ぶことも、決して許されない世界。

到底、生きていけるわけもない世界。

アンヌ・デバレードはきっと、できれば理由を言わずに家を飛びたしたかっただろう。けれど同時に、飛び出してもどこにも行き場所がないこともわかっていた。

 

この二人はともに、どこにも行き場所がない。

この世界と折り合いがつかない。

 

 

「モデラートは、普通の速さで、カンタービレは歌うようにっていう意味よ、なんでもないでしょ」

 

アンヌ・デバレードは「モデラート・カンタービレ」の意味をピアノ教師に訊かれて、答えられない子どもに向かってそう言う。だが、普通の速さで歌うように生きていくのが辛いのは……アンヌ・デバレードのほうだ。

 

「『子供ってものは別に生まれたくって生まれてきたわけではないんですよ』と母親は言った――彼女はまた笑った。『それがこんどは余分にピアノなんか習えって言われるでしょ、途方にくれるわけですよ』」

 

アンヌ・デバレードはピアノ教師にそう言う。

けれど途方にくれているのは、アンヌ・デバレードのほうだ。

 

このままの生活はとても続けられない。でも、どうすることも、できない。

 

 

そしてアンヌ・デバレードは、結局死ぬことも出来ない。

 

「『あなたは死んだほうがよかったんだ』とショーヴァンが言った。

『もう死んでいるわ』とアンヌ・デバレードは言った」

 

物語の最後に、二人はそう言ってわかれる。

すでに子どもをピアノのレッスンに連れて行く役割さえ、アンヌ・デバレードは取り上げられてしまっている。

 

 

その行く手には絶望しかないだろう。

もともと、アンヌ・デバレードが「殺された女」をうらやんだのは、死が甘美な快楽のように思えるほどの絶望の中にいたせいなのだから。

 

 

 

May 26, 2002

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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