GM−01

 

『青い犬の目』 ガルシア=マルケス

井上義一・訳、福武文庫、550円

 

L−024

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳死を判定する技術がなかった時代、「死」はいまよりもあいまいなものだった。

心臓が止まってしばらくしてから息を吹き返すものもいただろうし、棺おけの中でよみがえり、暗闇の中で助けを求めるものもいただろう。

「死」からよみがえるものがいるのなら、きっと「向こう側」にも世界がある、「向こう側」でもわたしたちは意識も記憶も人格も保っていて、また何か別の形で存在しつづける……長いあいだそんなふうに信じられてきたのは、ごく自然なことだったのかもしれない。

 

 

『青い犬の目』は、ガルシア=マルケス(GM)が新聞記者時代であった五十年代に執筆したとされる、ごく初期の短編集だ。作品はすべて短い幻想小説であり、大半は死をめぐる物語となっている。

いや、死をめぐる、というよりも生と死のはざまの物語、と言ったほうがいいかもしれない。

 

「彼は棺に入れられ、埋葬の準備も整えられていたが、自分がまだ死んではいないことを知っていた。起きあがろうと思えば、簡単にできそうだった」

 

「彼女はもはや彼女ではなくなっていた。肉体を失った彼女は小さな形のない点となって、絶対の虚無の上をふわふわとあてどなく漂っていた」

 

そう、これは「生」と「死」のあいだの、あいまいな領域の物語だ。

ここでは「生」と「死」は対立する正反対の概念ではなく、たがいに重なりあい、混じりあっている。

 

 

八十年代になり、脳死という概念が普及してから、「死」はずっと明確なものになった。呼吸が停止しても心臓が停止しても、脳波が停止していないかぎりそれは「死」ではないし、逆に心臓が動いていても、脳波が停止してしまえばそれは「死」だ。意識や記憶や人格はすべて、脳によって成り立っている。一度脳が死んでしまえば、もう「死」からよみがえることはない。身体が動かなくても意識のある人間は脳が生きているから、それは機械によって判別できる。

もう「死」の定義には疑問の余地がない……そうなるはずだった。

 

けれど「死」がどんなに不可逆的なものになっても、「生」と「死」の境界がどんなに明確になっても、そこには「中間」が存在する。すべての脳細胞が同時に死ぬわけではないのだから、たとえ一瞬だとしても、脳が半分だけ死んでいる、という状態があるはずだ。

 

理性はそのときすでにわたしたちは意識喪失に陥っていて何も感じない、と告げる。けれどもしも……そうじゃなかったら? 何らかの意識のかけらが残っていたとしたら?

 

「ところがその時、突然、背中を殴りつけられたように恐怖が襲いかかってきた」

「おそらく、彼はまだ死んではいなかったのだ。クッションが詰められた、柔らかくて極めて快適な柩に彼は入れられていたが、その柩の中で彼は現実への窓口が開かれるのを見たのだった。自分は生きたまま、埋葬されるのだ!」

 

 

結局、科学が説くのは、「誰か他の人の死について」なのだろう。「わたし」が死ぬときのことは、「わたし」にしかわからない。それは一瞬なのか、永遠のように長いのか、苦しいのか、そうでもないのか、あるいは美しい瞬間なのか……それは、誰にもわからない。

 

「わたし」はどんな気持ちで死んでいくのだろうか――その疑問に科学が答える日は、きっと来ないだろう。それは極めて主観的な出来事なのだから。

 

 

 

April 29, 2002

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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