【892】 創作する側の論理 |
2003/03/24(Mon)
23:32 | |
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From cloudy | |
こんにちは。
先日は、もう一つのBBSの方でご無理をお願いし、すみませんでした。こっちの(私の)BBSの方に、本当に書き込んでくださり、ありがとうございました。でも頼んでおいて恐縮なんですが、やっぱり私の方、ネット外が忙しくなって、いま自分のBBSに書き込んでいただいても、レスも書けないような状態であることに気が付きました(ほかに誰も書いていないので、それで構わないんですけど)。 でも感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
DIARY拝見しました。「お笑いと文学」「ゲームの構造」で、やわらかな文学論を展開されていますね。読ませていただき、かつて自分が、小説と評論(批評)のどちらを読むべきかと考えていたことを思い出しました。
学生の頃、小説ばかり読んでても仕方ない、これからは評論を読むべきだと考えていたことがありました。「文学」を考える時、個々の作品にあたるより、作品論あるい作家論の方がストレートに分かるんじゃないかと思ってました。でもやはり、論ずる側からのアプローチと、創作する側の論理は、ちょっと違うのではないかと最近思っています。
管理人さんは、小説も書いておられるんですよね。そうすると、理想主義的な文学論も必要かもしれないけれど、もっと前に、素材をどう見つけてくるかとか、構造をどうするかとか、お笑いとの関係は、などの泥くさい要素がまず問題になってくるのではないかと思います。小説家はきっとお笑いもチェックしているんじゃないかな。見当違いだったらごめんなさい。でも、「創作する側の論理」に立って、作品のできる過程をたどりながら、作者の発想と苦心などを想像するのも楽しいです。
ところで、『ベルリン・天使の詩』『まわり道』をご覧になったとのこと。ハントケではないのですが、同じヴィム・ヴェンダース監督の『都会のアリス』『さすらい』はご覧になりましたか? ヴェンダース映画がとても好きなので、いつか自分の方でもそれについて書きたいと思っています。
まとまりつかず、長くなってすみません。
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