HG−06 |
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『幻のイマージュ』 エルヴェ・ギベール 堀江敏幸・訳、集英社、1,500円 |
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L−008 |
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たとえば、完璧なシチュエーションで写真を撮ったときは、フィルムがうまく装てんされていなかったことが判明する。あるいは、完璧な光景に出会ったときは、カメラを持ってこなかったことを悔やむ。 こうして撮られなかった写真、幻のイマージュができあがる。 「あのとき映像が写っていたらこの文章は存在しなかっただろう」 「なぜならこの文章はイマージュの絶望だからであり、ぶれたり霞がかかったりしている映像よりさらに劣悪な幻のイマージュだからである」 これは写真をめぐる物語である。 長いものでも十一ページまでの六十四の断章でできたこの本は、ときには写真論、ときにはエッセイ、ときには完全な物語へと姿を変えながら、ひどく繊細な何かをかたちづくっている。 「ぼくの物語はまぎれもない写真の陰画(ネガティヴ)になり、写真は陰画的に、否定的(ネガティヴ)に語られる。幻の映像、浮かび上がらなかった映像、潜在的な映像、もしくは内密であるがゆえに見えなくなってしまった映像だけが取り上げられ、それは同時に、写真による一種の伝記の試みとなる」 写真をめぐる物語は同時に「ぼく」をめぐる物語でもある。 その中心にあるのは、「所有」であるかもしれない。 「写真は、犯罪ほど暴力的ではない所有法なのである」 あるいは「欲望」であるかもしれない。 「とりわけ気に入っていたのは、このふたりの人物の性別が鑑定できない点だ」 「ぼくは欲望すべきなのか、すべきでないのか? そんなふうに自分の欲望を定める必要があるのだろうか?」 あるいは「死」かもしれない。 「ぼくが写真に取りたいと思う対象は、そしてごくまれにしか自分のなかで起こらないこの欲望は、いつも死の近くに」ある。 そして物語は最後に、そのすべてをあわせ持つ「癌にかかった映像」にたどりつく。 盗んだ写真、中性的な少年、接着剤に蝕まれてゆっくりと病んでいく映像。 信じられないような奇妙な結末。 どこまでが事実なのか、どこまでが虚構なのか、それはたぶん、どうでもいい。 ただひとつわかることは、写真を撮ることも、物語を書くことも、どうしようもなく「わたし」をさらけ出す行為だ、ということだ。 それは、何かを肯定すること、何かを永遠に残そうとする試みだから。 「きみにこの話をして、ぼくはすっからかんになった気分だよ。この物語はぼくの秘密なんだ、わかるかい?」 そう、これはHGの六十四枚のセルフポートレートだったのである。 March 16, 2001 |
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