HG−04

 

『召使と私』 エルヴェ・ギベール

野崎歓・訳、集英社、1,000円

 

L−005

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分が召使に慕われるだろうなどと想像したこともなかった。むしろ、召使として雇い入れたその瞬間から、憎まれることになるのだろうと予想していた」

 

この言葉からはじまる物語は、全編ほぼ召使と私二人だけが登場人物の、一種の密室劇である。「私」がまだ元気なころには財産を減らすために世界中を旅して回るのだが、だからと言って旅先で何があるというわけでもない。

 

「私」はたまたま立ち寄った映画館で見た映画に主演していた少年を、召使として雇い入れることにする。そして二人の生活がはじまる。

 

八十歳の老人と二十歳そこそこの若者であるにもかかわらず、二人は「ナイキのパッド入りのテニスシューズにスリムのジーンズ、皮ジャン」という、似たような若者のファッションに身をつつんで外出する。

やがて、どんな服装を着るべきなのか決めるだけでなく、株の投機先を決めるのも、取引銀行を決めるのも、召使になっていく。

召使は「私」を居間に追い出して寝室で眠るようになり、他の使用人をすべて解雇してしまう。

そして物語はお定まりのパターンをたどる。召使が「私」を、虐げるようになるのである。

もはや「私」の絵画は勝手に売り飛ばされ、医師から処方されたモルヒネも奪われる。

 

だが突然、召使は改心する。

 

 

使い切れないほどの金を相続し、劇作家である「私」はトーマス・ベルンハルトを、養護施設で育ち、両親の顔を知らず、かっぱらいでメトレ感化院に送られていたという召使はジャン・ジュネを連想させる。

あるいは、ホモではないと主張する「私」は『楽園』の「ぼく」を、以前は若かったがもう二十歳になったという召使はヴァンサンを連想させる。

それとも、浴槽から自分から立ち上がることさえできなくなった老人はエイズでやせ衰えたHGを、介護する召使はHGの入院先の看護士たちを連想させる。

 

一枚一枚装飾をはがしていくと、やがてそこに現実が立ち現れてくる。

これは現実のパロディなのだろうか? 悲惨な現実の?

 

 

『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』の中に、こんな一節がある。

「そして作家たちはとつぜん人格をすべて失い、先輩作家たちをパロディ化しはじめている。トーマス・ベルンハルトはそう書いている。病気の進行の話を多少明るいものにするための、ほんの気晴らしだけれども」

 

 

この小説の中にあるユーモアを、HGの強靭さと受け取ればいいのか、あるいは追い詰められた精神の裏返しだと受け取ればいいのか、わたしにはよくわからない。

召使は「私」を慕っていたのか、それともはじめから財産目当てなのか、それもよくわからない。

 

けれども思わずにやりとするような、おかしなエピソードがちりばめられていることも事実だ。

 

たぶん人間は死病に冒されていても、ユーモアを忘れないのだろう。

いや、むしろ死病に冒されているからこそ、ユーモアややさしさ、愛を思い出すのかもしれない。

 

 

この物語の最後の五ページは、召使の手によって口述筆記されている、という。

その言葉は真実なのだろうか? それとも虚偽なのだろうか?

その判断は読者にまかされている。

 

 

 

February 21, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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