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「作者とは何か?」 ミシェル・フーコー

清水徹・訳、『作者とは何か?』(哲学書房、2,800円)所収

 

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エルヴェ・ギベールは『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』の中で、ミュージル(=ミシェル・フーコー)が晩年、自分の「名前のことをひどく気にするようになっていた」と書いている。「世間から忘れられたがっていた」と。

 

「ぼくは関係している新聞に評論を書いてもらおうと原稿を依頼した。彼は気乗りしない表情をみせたものの、ぼくを困らせまいとして、頭痛がひどいから、仕事は無理だと言った。しかたなく、ペンネームで発表するようにすすめた。翌々日、明快で犀利な内容の原稿が郵送されてきた。こんな言葉をそえて。『書けないのは頭痛のせいではなく、名前のせいです。どうしてそれがわかったのですか?』ペンネームはジュリアン・ド・ロピタール(病院のジュリアン)にしてほしいとあった」

 

だが新聞社はこの原稿を採用しない。「もちろん、ぼくが勤めていた有力日刊紙にとって、ジュリアン・ド・ロピタール名義の評論など不要だった」

原稿は秘書のファイリング・キャビネットの中で眠ったままになってしまう。

 

 

このエピソードを読んだときわたしは、1969年のMFのコレージュ・ド・フランスにおける研究発表、「作者とは何か?」を思い浮かべた。

《だれが話そうとかまわないではないか、だれかが話したのだ、だれが話そうとかまわないではないか》というベケットの言葉を出発点にしたこの研究でMFはまず、作者はすでに消滅している、ということを確認する。

 

「作家の刻印とは、もはや作家の不在という特異性でしかない。作家はエクリチュールの遊び(ゲーム)のなかで死者の役割を受け持たねばならないのです。こうしたすべてはよく知られたことで、もうずいぶん前に、世評と哲学とはこの作者の失踪ないしは作者の死亡を確認し記録にとどめています」

 

実際、完全に匿名で活動するモーリス・ブランショのような作家がフランスには存在する。そういえばポール・オースターの『シティ・オブ・グラス』の主人公クィンもまた、匿名のミステリー作家という設定だった。きっとアメリカにも匿名の作家は存在するのかもしれない(日本には存在しえないと言われている)。

MFも最初からジュリアン・ド・ロピタール名義でデビューしていたのであれば、そのまま匿名でいられただろう。

だが、たとえ作者の顔や年齢、生い立ちが公開されていなくても、「作者の名前」が意味を持つことは間違いない。モーリス・ブランショの作品はいつも先行するブランショの作品と比較されるし、ブランショの名前さえついていれば出版社に原稿を拒絶されることはほとんどない。

逆に、もしもジュリアン・ド・ロピタールという名前で原稿を書けば……その原稿は秘書のファイリング・キャビネットの中で眠ることになる。

 

編集者は原稿の価値を、作品そのものではなく、作者で判断している。

 

 

なぜそんなことが起きるのか、その理由をMFはこの研究発表のなかで分析している。

たとえば「作品」という概念は「作者」と同様に曖昧である……とか、人々は「作者」というものをある一定の水準を保証するものだと考えている……とか、同一の作者のテクストにはそのすべてを統一するようなある一点が存在すると思われている……とか。

 

けれどそうした分析よりわたしの興味をひいたのは、「作者」とはもともとは刑罰の対象を明確にするために明記されるようになった、という事実だった。

 

「テクストや書物や言説が現実に作者というもの(神話的人物とはちがうもの、聖化されまたみずから他を聖化する大人物とはちがうもの)をもちはじめたとき、その作者とは、処罰されることもありえたというかぎりでの作者、言いかえればそうした言説が侵犯的でありえたというかぎりでの作者でした」

 

そしてその時期より前には、文学作品は基本的に無署名で流通していた、という。

 

「ところがある入れ換え(キアスム)が一七世紀あるいは一八世紀に起こりました」

「《文学的な》言説は機能としての作者を付与されたかたちでしかもはや受け入れられない」

 

こうして作者は監視されるかわりに、印税を受けとることになる。

 

 

ひょっとするとこのことは単にわたしの個人的な注意をひいただけでなく、この研究の出発点だったのかもしれない。

ギベールの『THE GANGSTERS』には、MFのこんな言葉が登場する。

 

‘If, one day, the police ask you if you’re homosexual, you must say no. It’s no business of theirs. It’s an invasion of privacy. Next thing, they’ll use it against you…’

(「いつか警察がきみは同性愛者なのかと質問することがあったら、違うと答えなさい。警察にそんなことを訊く権利などない、プライバシーの侵害だ。それにどうせ警察は同性愛をきみに不利な材料として使うつもりだよ……」)

 

そう、いまも作者は監視されている。

そして、パパラッチに追いかけられたり、ストーカーにつきまとわれたり、ときには暗殺されたりする。

 

作品にとって作者は不可欠の存在ではない、というのに。

「エクリチュールはエクリチュールにしか照合されない」

それは机上の空論に過ぎないのだろうか?

 

 

けれどMFは言う。

 

「機能としての作者がけっして現れることなしにもろもろの言説が流通し、受けとられるようなある文化を思い描くことができます。あるゆる言説がそこでは、その身分規定、形態、価値のいかんを問わず、それらに対して向けられる取り扱い方いかんを問わず、囁きの匿名性のうちに繰りひろげられるでありましょう」

 

それは不可能な夢ではない。ただ、いまのこの社会がそういうあり方を否定しているだけだ。

MFのこの研究は、そういう社会と戦っている。

 

 

そしてわたしは夢想する。

もしもいま、例の「明快で犀利な内容の原稿」をジュリアン・ド・ロピタールというハンドル・ネームでネット上に公開したら、そのサイトはたちまち評判を呼ぶのかもしれない、と。

 

けれどMFは数年後に原稿の返却を要求し、処分してしまった。もうそれはこの世界のどこにも存在しない。

有名作家の名前がないばかりに原稿を掲載しなかった新聞社は、それがMFの原稿であったことを知って、少しは後ろめたさを感じたのだろうか?

それとも「あれは作者が誰であろうとも掲載の価値のない原稿だった」、と主張するのだろうか?

 

 

 

October 10, 2001

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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